【NECパソコンの歴史】
NECパソコンはとても以下のようにとても歴史は古いです。日本のメーカーとして質実剛健な印象です。
 

(歴史)

戦前のリレー式自動電話交換機の開発に端を発する。

1936年、日本電気の中島章は、後の真空管・半導体コンピュータの論理回路にあたるリレー回路の論理設計を論理数学(ブール代数)により行う理論を発表する。

1950年代には、パラメトロンコンピュータやFONTAC(富士通/沖/NEC共同コンピュータ)といわれる初期コンピュータを構築し、1960年代半ばに始まる通産省主体の大型プロジェクト超高性能電子計算機開発計画において、IBMなどの海外のコンピュータベンダに寄らない日本独自のコンピュータシステムを構築すべく、電機メーカに対し通産省の元でコンピュータシステムの開発を進めた。

その後、日本では1973年に米国からの圧力などでコンピュータの輸入自由化が決定された。通商産業省は、当時の国内コンピュータメーカーの体力ではIBMを初めとする海外メーカーに日本市場を席巻され打撃を受けるとして、当時6社あったコンピュータ業界の再編に乗り出し、東芝とNECを1つのグループとし、補助金を支給して各社に「IBM対抗機」の開発に当たらせた。

これがメインフレームACOSシリーズであり、非IBM互換として国内唯一の製品となる。

 

その後、汎用機とは別にニッチ製品として立ち上がったミニコンピュータやオフィスコンピュータのMSシリーズ/N5200シリーズといった小型サーバ機のカテゴリに進出する。 その一方、通産省主導のΣプロジェクトに呼応し、EWS4800によるUNIXワークステーションといったUNIX製品群においても、CAE-2Dなどを発売した。

その後、UNIX戦争の影響やその後の、Windows OS ベースのサーバやワークステーションの躍進を受けての、国産UNIX市場の縮退により、自社独自開発のUNIX関連製品群を放棄、HP-UXのOEMへの縮退に至る。

以降、NECのコンピュータ事業は、企業向けにおいては同業他社の富士通や日立と同様にシステムインテグレーション (SI) 案件の受注及び、ミッションクリティカルコンサルティングサービスといったSIサービスに軸足を移し、そのSIに必要なソフトウェアパッケージの販売を含め、建設系ゼネコンのような総合力で利益を確保してするようになった。さらに近年では、クラウドコンピューティングという新たな潮流に対応するべく、データセンター向けのサーバシステムやネットワーク経由のサービス提供(SaaS)にも力を入れている。

また、非IBMという姿勢を変えず、その中でHPやSUNといった製品のマルチOEM体制および自社Itanium系サーバの国際展開のバランスを取らんと苦闘している。これは競合他社、特に富士通と共通した姿勢である。

個人向けPC事業においては、長らく日本電気本体(一時期は新日本電気も含まれていた)が事業を統括して、傘下の生産子会社(NEC米沢・NEC群馬・NEC新潟・日本電気データ機器)で製造を行う形を取っていた。しかし、2001年10月に製造をNECカスタムテクニカ、個人向け(VALUESTAR・LaVie)の販売をNECカスタマックスに統合再編し、さらに2003年7月、この2社が合併したNECパーソナルプロダクツが事業を担う形になっている。なお、企業向け(Mate・VersaPro)についてはNECパーソナルプロダクツで製造、日本電気本体が販売を担っている。 これらの米沢、群馬、新潟といった生産子会社でのPCの生産は縮小、再編され、台湾メーカを利用したファブリックな生産方式に移行しつつあり、元々利益の少ないパーソナル向けの製品群による事業均衡を図っている。

なお、情報処理産業の育成において、NECは水野幸男という逸材を輩出し、日本における汎用機黄金期といち早いUNIX分野でのエンジニアの育成という並立させる事が困難な問題を、比較的早期にクリアした企業である。

NEC製コンピュータは、一部のユーザーの間では「ねっく」と呼称されることもある。

 

 NEC Direct ・NECダイレクト